夕食用に買ってきたサンドイッチと妻の明日美(34歳)が焼いてくれたクッキーを食べ終えた天ノ川京(33歳)は、もう一仕事しようと細い指でパソコンのキーを叩き始めた。1行も原稿を書けないうちにスマホが鳴った。明日美からだった。
「京ちゃん、今、電話で話しても大丈夫?」
明日美の声はいつもより弾んでいた。こんな時、明日美の次の言葉は決まっている。
「あたし、すごーく面白い話を聞いたの!」
「家に帰ってからでいいかな? 今、手が離せないんだ」
京は出版社でマネー雑誌の編集者を務めている。2月号の編集作業が佳境に入り、編集部員全員がパソコンとにらめっこしているのだ。
「でも謎めいた話なのよ」
明日美は誘惑するような声を出した。
「話してくれたのは高久温子(62歳)さんというご近所の方で、あたしのお客様なの」
明日美はフリーのファイナンシャルプランナーをしている。今回も顧客から話を仕入れてきたらしい。
「温子さん、ご主人の様子がおかしいと言うのよ。ご主人は大手食品メーカーの執行役員を務めていて、昨年65歳で退職したの。以来、悠々自適のはずだったのが、同期で同じ時期に退職した恩田さんという方がガンで亡くなり、彼の葬儀に出席した直後から不眠を訴えるようになったと言うの。最近では夜中にはね起きて『庭で物音がする。泥棒が俺たちの家を狙っているんじゃないか』と110番しようとするんだって」
「同期の人が60代の若さで亡くなって、ショックを受けているんじゃないかな」
「でも温子さんが言うには、ご主人は恩田さんをあまり好いていなかったそうなの。ご主人は温子さんに『あいつの見舞いに行ったら嫌なことを言われた』と話していたそうよ。それだけじゃないの。最近では温子さん自身も夜中に庭で物音がするように思えてきたと言うのよ。どうする? 続きは京ちゃんが帰ってきてからにする?」
「明日美、意地悪な質問しないでくれよ。僕の人生に必要なのは君とお金と謎だといつも言っているだろう?」
京は口を尖らせた。推理小説を愛し推理作家を目指している京は謎の香りを嗅ぐともう我慢できない。同期社員の死と夫の異変にはどんな関係があるのだろうか? 庭の物音は幻聴なのかそれとも......。
「高久さんご夫妻は資産家なの?」
「大手食品メーカーで執行役員まで務めた方だから、資産はそれなりに持っているわ。ご主人は50代初めから株や投資信託にも積極的に投資するようになって、今では新興国の企業の株のような高リスク高リターンの金融商品も購入されているの。最近は世界的に株価の乱高下が激しくて、やきもきしているかもしれないけれど」
「ご自宅は?」
「立派なお家よ。京ちゃん、その細腕を貸してくれない? あたし、大事なお客様に安らかな眠りをプレゼントしたいの」
週末、京は明日美とともに高久家の広壮な邸宅を訪ねた。主人の高久剛(66歳)は、初めのうちは自身の不眠を明日美と京に打ち明けた妻の温子に苛立ちを隠さないでいたが、京が「庭に防犯カメラを設置してみたらいかがでしょうか」と提案すると「いいアイデアだ!」と身を乗り出した。
「それをあなたにお願いしてもいいのかね? もちろんカメラ代も手間賃も払うよ」
「お安いご用です。ただ、いただくのはカメラを購入する実費だけで、手間賃はけっこうです。謎解きは僕の趣味ですから」
「君は変わった人みたいだな」
剛は笑った。その表情は精力的で現役時代はやり手だと言われていたに違いない。
同日の夕刻、京は再び高久家を訪ね、ホームセンターで買った防犯カメラを庭の植栽に取り付け、庭全体を剛のスマホの画面で見られるようにした。
いったん自宅に戻って夕食を食べ、午後九時前に高久家をまた訪れた京は、夜の庭の様子を確認できるかどうか剛のスマホのアプリを起動させた。防犯カメラには暗視機能が付いていて、部屋から漏れる程度の明かりがあれば被写体を映し出すはずだ。
高久夫妻も明日美も画面を覗き込んだ。明日美の腕の中にはソフィーもいて興味深げに周囲を見回している。
「ちゃんと映っています! これで人影がよぎるなどカメラが動くものをとらえたら、スマホが警告音を鳴らしてくれるはずです」
京がそう言ったとたんにスマホが鳴った。画面に映る暗い庭を人影が歩いている。体格からすると男性のようだ。
「京ちゃん......どうする?」
「僕が出ていって侵入者かどうか確認してみる。僕が声を出したらすぐに110番して」
そう言ったものの足が震えてうまく歩けない。明日美の腕から飛び出したソフィーに先導され、後ろから来る高久夫妻にも背中を押され、玄関にたどりついた京はドアを開けた。
30代の温和な顔の男が玄関前に立っていた。
「渡......」
「お母さん、こちらの方は?」
「あなたこそどうしてここに?」
「お父さんの様子がおかしいと言うから来てみたんだよ。でも良かった。お父さん、元気そうじゃないか。あ、そうそう、門柱の留め金が取れかけていて、風に吹かれて音を立てていたよ。お父さんが気にしていた物音ってそれだったんじゃないかな」
夕食用に買ってきたおにぎりと妻の明日美が作ってくれたパウンドケーキを食べ終えた京は、2月号の編集作業が完全に終わるまであと一頑張りだとパソコンのキーを叩き始めた。5分もしないうちにスマホが鳴った。明日美からだった。
「京ちゃん、高久さんのご主人の件だけれど」
「どんな感じだって?」
あれから1週間、京は剛が気になっていた。
「温子さんが言うにはご主人の不眠はひどいままで、相変わらず夜中に飛び起きたりするんだって」
「不眠は庭の物音が原因ではなかったんだね。もしかして......」
京は「今、何かが下りてきている」と言った。
( 後編につづく )