き ょ うがこしらえた半熟煮卵と、明日美あ  す  みが焼いてくれたパンケーキを朝食に食べ終え、「ごちそうさま」と言って京が食器を片付け始めたその時、明日美のスマホが鳴った。
明日美は電話の相手としばらく言葉を交わし、突然「嘘でしょう!?」と驚いた声を出した。
京は明日美の様子が気になったが、出勤の時刻が迫っているので自室に戻り、ネクタイを締めた。京は出版社でマネー雑誌の編集者を務めている。今日は午前10時30分から3月号の特集企画のための打ち合わせがあるのだ。
資料を鞄に入れ、スリムな体にジャケットとコートを羽織って部屋を出た時、電話を終えた明日美が廊下で京を待ち構えていた。
「京ちゃん、さっきの電話だけれど」
明日美の声はいつもより弾んでいたが、その大きな瞳には緊張が滲んでいる。こうなると明日美の次の言葉は予測できない。
「あたし、大変な話を聞いてしまったの」
「今晩帰ってきてからでいいかな。そろそろ行かないと打ち合わせに遅刻してしまうから」
「差し迫った話なのよ。それに京ちゃんの謎解きの才能が必要だわ」
明日美は懇願するような声を出した。
「電話は大学時代のゼミの後輩の篤田律子と く た り つ こ(33歳)からで、いきなり『健ちゃんがいなくなっちゃったの。帰って来ないの!』と言うのよ」
「健ちゃんって?」
「律子のご主人。一昨日の土曜日、律子はお金をどう運用するかでご主人の健一けんいち(31歳)さんと喧嘩をしてしまったんだって。それで健一さん、夜中にアパートを出て行ったきり日曜日も帰って来なかったそうなの。電話しても出ないし、メールを打っても返信してくれないと言うのよ」
「それって......つまりよくある夫婦喧嘩だよね」
「律子、健一さんのことが心配になって今朝早く、会社に電話したそうなの。健一さんは毎朝8時までに出社しているんだって。ところが午前9時近くになっても健一さんは出社していないと言われて、それであたしのところに電話してきたの」
「警察には通報したの?」
「あたしも同じことを聞いたわ。『事件に巻き込まれたとは限らないから、まだしていない』って。そう言いながら律子、本当に心配しているわ。昨晩は一睡もできなかったみたい。健一さん、これまで会社には無遅刻無欠席で何があっても午前8時までに出社していたそうよ。それでね......健一さん、出て行く前にイタズラみたいなことをしていったと言うの。どうする? 続きは今晩、帰ってきてからにする?」
「明日美、意地悪な質問しないでくれよ。僕の人生に必要なのは君とお金と謎だといつも言っているだろう? イタズラみたいなことって?」
京は口を尖らせた。推理小説を愛し推理作家を目指している京は謎の香りを嗅ぐともう我慢できない。
「健一さん、コーヒーカップにスプーンを入れて、律子の鏡台の前に置いていったんだって。京ちゃん、その細腕を貸してくれない? あたし、後輩に安らかな眠りをプレゼントしたいの」

編集部での打ち合わせを終えた後、明日美と合流して律子のアパートを訪ねた京に、律子は「こんなこと初めてだから、どうしていいかわからなくて......」と声を震わせた。憂いを漂わせた目は優しげだが、芯の強そうな顔立ちをしている。
「お金をどう運用するかでぶつかってしまったそうですね?」
京の質問に律子はうなずいた。
「夫はコンピューターシステム会社でシステム・エンジニアをしています。私は近くの保育園で保育士として働いていて、2人でこつこつと給料を貯めたおかげで先日、預金残高が『まずはこれだけは貯めたいね』と言っていた金額を超えたんです」
「目標の金額って?」
明日美が聞いた。
「500万円......持っている人からすれば大きな金額ではないけれど」
「そんなことない。大したものよ」
「それで健ちゃん『このお金をもっと増やすために株や投資信託に投資しよう』と言い出したんです。あたしは反対しました。『元本が保証されない株や投資信託なんて危険だと思う。給料が減ってしまうかもしれない時代なんだから、預金で安全に運用するべきだ。預金は減らないから』って。健ちゃんは納得してくれないどころか、『投資してお金が増えたら、いずれそれを頭金にして住宅ローンを組みたい』なんて言い出したんです。あたしは、それにも反対しました。そうしたら『君とはお金についての考え方が相容れない』とすねてしまって......」
「それで出て行ってしまったんですね」
律子は「はい」と返事してうなだれた。
「健一さん、出て行く前にイタズラみたいなことをしていったそうですね。そのままにしてありますか?」
律子は寝室として使っている六畳間に京と明日美を案内した。部屋の隅に三面鏡ドレッサーが置かれ、白い磁器のコーヒーカップがテーブルの上に載せられていた。コーヒーカップは空で、銀のスプーンが挿してある。
「素敵なコーヒーカップね。でも何でこんなところに?」
明日美が聞いた。
「これ、いつも健ちゃんが使っているコーヒーカップとスプーンなんです。なぜ鏡の前に置いたのか、わけがわからなくて......」
「スプーンはいつもこのように受け皿ソ ー サ ―には置かず、コーヒーカップに入れているのですか」
「コーヒーを飲むときにそうしているんです。健ちゃんは猫舌で、少し冷めるまで、子どもみたいにスプーンですすって飲むので......」
「これまでにこの手のイタズラをしたことはありましたか」
「ありません。イタズラどころか冗談もあまり言わない生真面目な人だから」
「もしかしたらこれは健一さんのメッセージかもしれませんね。律子さんに伝えたいことがあるのかも......」
明日美と律子が顔を見合わせた。
京は「今、何かが下りてきています」と言った。

京は三面鏡ドレッサーのテーブルに載せられたコーヒーカップを手に持った。
「健一さんは律子さんに居場所を察してもらおうとこんなイタズラみたいなことをしたのかもしれません。普段使っているカップにわざわざ銀のスプーンを挿した。健一さんはそのことで、いつもこのカップで飲んでいる中身、つまりコーヒーを示そうとしたのではないでしょうか」
律子が怪訝な顔をした。
「コーヒーを示したことと、健一さんの居場所とどんな関係があるの?」
明日美が聞いた。
「中身のことを英語で何と言う?」
「コンテンツでしょう」
「他にはない? 『中身の...』とか『正味の...』と言う意味で使う英単語は?」
「ネット......」
「そう、ネットだよ。もしかしたら健一さんはネットカフェにいると律子さんに伝えたかったんじゃないかな。カフェは喫茶店のようなお店を指すけれど、もともとはコーヒーを意味するフランス語あるいはイタリア語だ。それにネットカフェならノートパソコンを持ち込んで仕事ができる」
「でもどうして鏡の前なの? あ......そう言えば......」
明日美が目を大きく見開いた。
「駅前にミラーズというネットカフェがあるわ!」

京と明日美、律子の3人は駅前の商店街にある「ネットカフェ・ミラーズ」を訪ねた。律子が受付係の若い従業員に「篤田健一が客として来ていると思うのですが」と聞いたとたん、従業員は驚いた顔をして「奥様ですか!?」と聞いた。
うなずく律子に従業員は「篤田様は今、病院にいます。30分ほど前、突然、腹痛を訴えて、私たちが病院に連れていったんです」
「そんな......!」
律子の顔から血の気が引いた。
( 後編につづく )

登場人物

  • 天ノ川京(あまのがわ・きょう/主人公)

    33歳、マネー誌の編集者。推理小説を愛し推理作家を目指している。趣味は謎解き。優しい性格で妻の明日美に振り回される。

  • 天ノ川明日美(あまのがわ・あすみ)

    34歳、京の妻、フリーのファイナンシャルプランナー。好奇心旺盛で周辺で起きるマネーの謎にことごとく首を突っ込む。

  • 篤田律子(とくた・りつこ)

    33歳。明日美の大学時代のゼミの後輩。お金をどう運用するかで夫の健一と衝突し、夫が出ていってしまったと明日美に打ち明ける。

  • 篤田健一(とくた・けんいち)

    31歳、律子の夫。律子に謎かけをして姿をくらます。

渋谷 和宏 (しぶやかずひろ)

執筆:渋谷 和宏 (しぶやかずひろ)

作家・経済ジャーナリスト。大学卒業後、日経BP社入社。「日経ビジネスアソシエ」を創刊、編集長に。ビジネス局長等務めた後、2014年独立。大正大学表現学部客員教授。1997年に長編ミステリー「錆色(さびいろ)の警鐘」(中央公論新社)で作家デビュー。「シューイチ」(日本テレビ)レギュラーコメンテーターとしてもおなじみ。

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