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  • LEGENDS
  • 1 宿澤 広朗
  • 2 森 重隆
  • 3 松尾 雄治
  • 4 平尾 誠二
  • 5 大畑 大介

1 宿澤 広朗
元三井住友銀行取締役兼専務執行役員

日本のラグビー界で世界と戦うための本質を見抜いた人間が、宿澤広朗だった。
1991年、監督として日本代表を率いて第2回大会に乗り込み、ジンバブエから初勝利をもぎ取ったからではない。その経験を踏まえて、世界と戦う意義をこう明快に断じたからだ。

「世界は、勝利以上に、日本がどんなラグビーをやるかに注目している」
00年に強化委員長に就任した直後には、外国人コーチの存在意義をこう定義した。
「海外の人間が日本の強みと弱みをどう考えているか、それを知ることが強化には必要だ」
同時期には、母国でオーストラリア代表を指揮していたエディー・ジョーンズと連絡を取り合い、日本代表に準じるチームと、トップリーグ・オールスターズを編成して、オーストラリアに本拠を置くスーパーラグビーの2チームと、「スーパー4」という大会を開催することを画策したことがある。結局、日程などが折り合わず、この構想は実現しなかった。だが、そのとき親交を深めたエディーがのちに日本代表ヘッドコーチとなり、掲げたテーマが奇しくも「JAPAN WAY」だ。そして、日本は15年大会で世界に勝利した。

あれから4年、今の代表は、さらに強化されて本大会ベスト8を目指す。
「ほらね、日本のラグビーはちゃんと世界に通用するんだよ」
三井住友銀行の専務執行役員という要職にありながら55歳で急逝した宿澤は、生きていれば今、そう言って得意げな顔をしているはずだ。

text by Hiromitsu Nagata

2 森 重隆

明治大学ラグビー部時代、恩師である故・北島忠治監督から「糸の切れた凧のような走り方をする」と評された、変幻自在のステップ。
後輩の松尾雄治が、「足も速いし、パスも早い。相手に接近したギリギリの状況でパスを送れる」と高く評価する、攻撃的なプレーぶり。
それが森重隆の代表的なイメージだ。

けれども、森は、自身のプレーも含めてタックルをラグビーの根幹に位置づける。
いわく、「タックルしない奴はラグビーを辞めろ」。
現役時代は身長169センチ、体重65キロ。軽量で小柄な選手だ。にもかかわらず、センタープレーヤーとして、イングランドやフランスを筆頭に、海外の巨漢選手にもひるむことなく頭からタックルに入り続けた。ひとつのタックルがチームを鼓舞し、仲間からの信頼を勝ち取るメンタルな効用を熟知していたからだ。

2019年6月。
そんな森が、日本ラグビーフットボール協会会長に就任した。
就任記者会見では、「これから、日本のラグビーを引っ張る覚悟でいる」と、自身が練った挨拶を読み上げるうちに感極まって言葉を詰まらせた。
「糸の切れた凧」のようなステップを持ちながら厳しいタックルにこだわり抜いたように、普段の森が口にする軽いジョークの裏側には、ラグビーへの熱い思いが渦巻いている――それが、森重隆という男の本質なのである。

text by Hiromitsu Nagata

3 松尾 雄治

1983年10月、日本が敵地でウェールズを24対29と追い詰めた試合で、10番を背負っていたのが、松尾雄治だった。ラグビーの世界大会があと4年早く始まっていれば、日本代表の初代10番を背負うのは松尾になるはずだった。
けれども現実は残酷だ。

85年1月15日。松尾が率いた新日鐵釜石は、日本選手権7連覇を達成。6万人を超える大観衆の前で胴上げされた松尾は、この試合を最後に引退。初めての世界大会が開催されたのは、それから2年後だった。
そんな時代のスタンドオフでありながら、松尾がラグビーを見る目はまったく古びていない。日本代表の10番にもっとも大切な資質をこう規定するのだ。
「日本はコマネズミのように走り回らないと勝てない。だからこそ、ゲームスピードにいかに変化をつけるか。その判断が何よりも大切だ」と。

かつて代表でともにプレーした平尾誠二は、松尾をこう評する。
「ゲームコントロールと、狙った場所にピンポイントで落とすキックは本当に凄かった」
その言葉を裏づけるように、松尾の持論は「スタンドオフは動くな」だ。陽性で饒舌なキャラクターとは裏腹に、天空に位置する北極星のようにチームの真ん中にいて、すべてのプレーヤーに目を配る。そして、ささいな変化も見逃さずに攻守を司る――それが、稀代の「ゲームコントローラー」の神髄なのである。

text by Hiromitsu Nagata

4 平尾 誠二

「あの40分が僕のベストゲーム」
2016年に53歳の若さで亡くなった平尾誠二が、そう振り返ったゲームがある。
第2回大会初戦、古都エディンバラでのスコットランド戦だ。

平尾は、スコットランド・ラグビー協会のパトロンであるアン王女が日本の選手たちを謁見する間、キャプテンとして王女をエスコート。バグパイプが両国国歌を奏でて試合の始まりを告げる、重厚な雰囲気のなかで、日本は健闘した。
前半を終えて9‐17。終了直前に平尾が身体を張って相手防御に挑み、タックルを受けながらラストパスを通して、5万人の観客を黙らせた。
そう。この試合の観客は、勝負の行方が決まるまで、日本の得点はおろか好プレーにさえほとんど拍手を送らなかった。
「つまらんトライも取られたけど……」と、嘆くのが前振りだが、本場の観客に固唾を呑ませた手応えが「ベストゲーム」という言葉を導いたのだ。

後年、監督として世界最高峰のラグビーに挑んだ際は、大型化と日本的なパスプレーのバランスを取るのに苦労して3戦全敗に終わったが、そんな経験も踏まえて、亡くなる前年には世界と戦う日本代表に熱いエールを送っていた。
「これ以上考えられないほど、いい準備をしている」と。
自国開催の大会を、「本当は、一観客として試合を見て楽しみたいんだ」と待ち望んでいた男は、今、彼岸から日本の健闘を見守っているのだろうか。

text by Hiromitsu Nagata

5 大畑 大介

「オオハタ?」
「オオハタ!」
その声は、さざ波のようにピッチに届いた。
1999年、日本代表が初めてフィジーに遠征したときだ。試合前日練習に多くのフィジー人が集まり、呪文のように「オオハタ」の名を唱え、その姿を探している。

7人制ラグビー(セブンズ)をこよなく愛するこの国の人たちにとって、その年の春に行なわれた香港セブンズで、自陣ゴール前から劇的な独走トライを挙げてMVPに選ばれた大畑大介は、文句なしの「ヒーロー」だ。この時点で大畑は、母国日本よりもフィジーで有名人だった。
その年の秋、初めて15人制の世界大会に臨むや、不慣れなフルバックでポジショニングを誤り、「ゲームをおかしくした責任を感じている」とうつむいた。トライを奪って脚光を浴びるよりも、チームの勝利に貢献することを第一に考える責任感。逆説的だが、それが大畑を駆り立てて、テストマッチ通算69のトライ数世界記録に導いた。91年のジンバブエ戦から15年の南アフリカ戦に至る、24年間の「世界で勝てない時代」にトライを積み重ねたのだ。つまり、対戦国の多くが「格上」の時代に、金星のために走り続けたからこそ、58回のテストマッチ出場で69のトライが生まれたのである。

ワールドラグビーは、16年に「ラグビーの殿堂」に「DAISUKE OHATA」の名を刻んだ。
「非伝統国」のエースの価値を、世界が認めたのだ。

text by Hiromitsu Nagata